太宰ゆかりの雄山荘跡を訪ねて
神奈川県小田原市下曽我の雄山荘が全焼したというニュースに衝撃を受けた方も多いのではないでしょうか。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/091226/dst0912260947002-n1.htm
火災のニュースでは、まだ焼け残った門が映し出されていましたので、現地を訪問してみました。本当は建物が残っている間に、一度見ておけばよかった、と後悔しましたが、後の祭りです。
この建物、太宰治の小説『斜陽』に登場する伊豆の別荘のモデルとして知られていますが、もともとは印刷会社「アサヒ印刷」の社長であった加来金升の別荘でした。完成したのは昭和5年。室内の調度や庭石の一つ一つまでこだわり抜いて作り上げたたため、準備に3年、上棟から完成まで2年を要したといいます。
自身は世田谷に本宅を持っていましたが、余命いくばくもない母親を住まわせるために、富士山と相模湾を望むこの風光明媚な曽我の地を選んだそうですが、残念ながら母親は別荘の完成を待つことなく世を去ったといいます。
加来金升自身はこの建物に住むことなく、友人知人に貸していました。昭和12年2月7日には、高濱虚子が俳句仲間を集め句会を開いたそうです。ただ、平成4年以降は誰も住むことなく、空き家となっていました。
ところで、なぜこの建物が、太宰の作品に登場するのでしょうか。図書館で見つけた『雄山荘物語』を参考に調べてみました。
加来金升氏の縁戚に日本曹達社長の大和田悌二という人がいました。この大和田氏は太田静子の伯父にあたる人で、「大和田の伯父」として太田静子の「相模下曽我日記」にも登場します。
太田静子は『斜陽』の主人公かず子のモデルと言われている人です。もともと東京に住んでおり、太宰を師と仰いで自身の作品を見てもらったりしていた、太宰ファンの一人だったようです。太田静子が、大和田の伯父の勧めで下曽我の雄山荘に疎開したのが昭和18年。昭和21年9月には、津軽に疎開していた太宰に、自らの生涯を日記に記していることなどを伝えています。もともと日記を書くように勧めたのも太宰だったようです。太宰はその日記を見せてほしい、と伝えてきました。静子は下曽我まで来ていただけたら日記を見せる、と返答します。
昭和22年2月21日、太宰は下曽我にやってきました。このとき太宰は雄山荘に五日間滞在し、太田静子は身ごもりました。太宰は静子の日記を借り、伊豆の三津浜にある安田屋旅館に滞在して、静子の日記をもとに、『斜陽』を書き始めました。
さて、雄山荘は観光スポットではありませんから、もちろん地図を調べてもその旨の表記はありませんし、近所に行き先表示がなされているわけではありませんので、ネット上に公開されれいる、実際に訪問した方の紹介記事などを頼りに、現地を訪れてみました。
テレビで見たニュースでは、門が焼け残っていたのですが、なんと門は取り壊されて、板塀だけになっていました。
板塀の端には、生々しい煤の跡が。下は門があった場所の左手の塀。
下の写真は、門の右手の塀。
無残にも、「関係者以外立ち入り禁止」の札が。
門の前の石畳に、石臼が埋められていました。地面より下の遺構は火災の後も残るのですね。
石灯籠のむこうには、焼け残った石などを寄せて積み上げてあります。
家の土台から、なんとなく家の形が推定できます。土台の中央に見えるのは炉の跡でしょうか。
雄山荘前の道路は細く、確かにこれでは消防車が近くに寄せるのも大変だっただろうと思います。写真の右手が雄山荘跡の塀です。
実は私も、10数年前に社会人となった頃、この下曽我近くの寮で二ヶ月ほど過ごしたことがありました。当時はこんなに近くに、太宰が通ったゆかりの場所があるなどとは夢にも思いませんでした。太宰が実際に足を踏み入れた建物、形あるうちに見ておきたかったと悔やんでももう仕方ありませんが、残念ですね。
近くにある尾崎一雄の文学碑なども訪れましたが、こちらはまた別の機会に紹介します。
※なお、ここに掲載した写真は2010年1月24日のものですので、すでに現在は様相が変わっているかもしれません。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/091226/dst0912260947002-n1.htm
火災のニュースでは、まだ焼け残った門が映し出されていましたので、現地を訪問してみました。本当は建物が残っている間に、一度見ておけばよかった、と後悔しましたが、後の祭りです。
この建物、太宰治の小説『斜陽』に登場する伊豆の別荘のモデルとして知られていますが、もともとは印刷会社「アサヒ印刷」の社長であった加来金升の別荘でした。完成したのは昭和5年。室内の調度や庭石の一つ一つまでこだわり抜いて作り上げたたため、準備に3年、上棟から完成まで2年を要したといいます。
自身は世田谷に本宅を持っていましたが、余命いくばくもない母親を住まわせるために、富士山と相模湾を望むこの風光明媚な曽我の地を選んだそうですが、残念ながら母親は別荘の完成を待つことなく世を去ったといいます。
加来金升自身はこの建物に住むことなく、友人知人に貸していました。昭和12年2月7日には、高濱虚子が俳句仲間を集め句会を開いたそうです。ただ、平成4年以降は誰も住むことなく、空き家となっていました。
ところで、なぜこの建物が、太宰の作品に登場するのでしょうか。図書館で見つけた『雄山荘物語』を参考に調べてみました。
加来金升氏の縁戚に日本曹達社長の大和田悌二という人がいました。この大和田氏は太田静子の伯父にあたる人で、「大和田の伯父」として太田静子の「相模下曽我日記」にも登場します。
太田静子は『斜陽』の主人公かず子のモデルと言われている人です。もともと東京に住んでおり、太宰を師と仰いで自身の作品を見てもらったりしていた、太宰ファンの一人だったようです。太田静子が、大和田の伯父の勧めで下曽我の雄山荘に疎開したのが昭和18年。昭和21年9月には、津軽に疎開していた太宰に、自らの生涯を日記に記していることなどを伝えています。もともと日記を書くように勧めたのも太宰だったようです。太宰はその日記を見せてほしい、と伝えてきました。静子は下曽我まで来ていただけたら日記を見せる、と返答します。
昭和22年2月21日、太宰は下曽我にやってきました。このとき太宰は雄山荘に五日間滞在し、太田静子は身ごもりました。太宰は静子の日記を借り、伊豆の三津浜にある安田屋旅館に滞在して、静子の日記をもとに、『斜陽』を書き始めました。
さて、雄山荘は観光スポットではありませんから、もちろん地図を調べてもその旨の表記はありませんし、近所に行き先表示がなされているわけではありませんので、ネット上に公開されれいる、実際に訪問した方の紹介記事などを頼りに、現地を訪れてみました。
テレビで見たニュースでは、門が焼け残っていたのですが、なんと門は取り壊されて、板塀だけになっていました。
板塀の端には、生々しい煤の跡が。下は門があった場所の左手の塀。
下の写真は、門の右手の塀。
無残にも、「関係者以外立ち入り禁止」の札が。
門の前の石畳に、石臼が埋められていました。地面より下の遺構は火災の後も残るのですね。
石灯籠のむこうには、焼け残った石などを寄せて積み上げてあります。
家の土台から、なんとなく家の形が推定できます。土台の中央に見えるのは炉の跡でしょうか。
雄山荘前の道路は細く、確かにこれでは消防車が近くに寄せるのも大変だっただろうと思います。写真の右手が雄山荘跡の塀です。
実は私も、10数年前に社会人となった頃、この下曽我近くの寮で二ヶ月ほど過ごしたことがありました。当時はこんなに近くに、太宰が通ったゆかりの場所があるなどとは夢にも思いませんでした。太宰が実際に足を踏み入れた建物、形あるうちに見ておきたかったと悔やんでももう仕方ありませんが、残念ですね。
近くにある尾崎一雄の文学碑なども訪れましたが、こちらはまた別の機会に紹介します。
※なお、ここに掲載した写真は2010年1月24日のものですので、すでに現在は様相が変わっているかもしれません。
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