宮城道雄と刈谷駅(2)供養塔に刻まれた点字の楽譜
前回のブログで紹介した、刈谷駅そばの宮城道雄の供養塔について、詳しく見ていきましょう。
(参考)刈谷駅から供養塔までの道のり
https://ikezawabungaku.seesaa.net/article/201105article_1.html
下の写真は、供養塔のあるエリア全体を眺めたところです。
植え込みに囲まれて、いくつかの碑が建っているのが見えます。
解説板には以下のようにありました。
宮城道雄供養塔
「春の海」を作曲した筝曲家宮城道雄は、大阪・神戸・京都など関西での演奏旅行のため夜行急行「銀河」に乗ったところ、昭和31年6月25日未明、刈谷駅の東で列車から落ちて死亡した。
宮城道雄は明治27年神戸市に生まれ、7歳の時に失明してから生田流2代目中島検校の門に入って筝三絃を学び、12歳で師範免許を受けた。
供養塔は三重宝塔で、昭和32年5月、刈谷市・宮城会・日本盲人会の三者によって転落場所近くのこの場所に建てられた。
平成12年3月
刈谷市教育委員会
解説版の後ろに、「交通守護」と刻まれたお地蔵様が建っています。裏に、「昭和32年5月建之 宮城貞子」とありましたので、宮城道雄の妻によって設置されたもののようです。
その右手には「楽聖宮城道雄先生供養塔」と刻まれた大きな石柱が立っていますが、これは供養塔ではなく、標識です。供養塔よりも大きく目立って見えます。
この石柱の左側面には、「日本芸術院会員豊道慶中書」とあります。
石柱の裏面にまわると、上から「昭和三十二年五月建之」「刈谷市 宮城会 日本盲人会」の文字が刻まれています。
その左下には、やや浅く、「岡崎市 石研作」と刻まれています。石柱作成を請け負った石材屋の名称でしょうか。
さて、ここからが本題の供養塔です。
供養塔を正面から見ると、三重宝塔の一番下の段を長く伸ばして、そこに文字を浮き彫りにしたデザインになっています。正面には、「楽聖宮城道雄先生供養塔」とあり、上部には琴を奏でる天女らしき姿が浮き彫りされています。
供養塔の左手には、この供養塔について記したと思われる点字の文章を銅版に打ち出してはめ込んだ解説板が立っています。下には「盲人の参拝者のために」とあります。
供養塔の左側面には、笛を奏する天女のレリーフの下に、「水の変態」と縦に書かれた文字。そしてその背景に、なにやら点字らしきものが一面に彫られています。どうやらこれは、宮城道雄が14歳の時に作曲した処女作『水の変態』の点字楽譜のようです。ちなみに、当時家庭の事情で朝鮮の仁川(現在の韓国のインチョン)に住んでいた道雄は、この曲で伊藤博文に認められ、伊藤は道雄を上京させてその後の面倒を見ることを約束しましたが、その直後に伊藤自身が暗殺され、結局約束は果たされませんでした。
楽譜が刻まれている碑は多々あると思いますが、このように点字の楽譜が刻まれたものは珍しいのではないでしょうか。
供養塔の右側面にまわってみましょう。
こちらにも楽譜が刻まれていますが、点字ではなく、一般の五線譜です。曲目は、現在でも我々が正月になると必ず耳にする名曲「春の海」。
台座の右側面には、「監修 文博(文学博士) 石田彦作 設計・制作 岡崎市石研 池上年」とあります。
台座の左側面には「塔銘 日本芸術院会員 豊道慶中書」とあります。豊道慶中(ぶんどうけいちゅう)は、先ほど見た、大きな標識の文字も書いた書家で、号を春海( しゅんかい)といいました。六朝風の楷書で独自の書風を作りあげた慶中は、天台宗の大僧正でもありました。号は、道雄の「春の海」にも通じるものがありますね。
台座の背面には、「昭和三十二年五月建之 刈谷市 宮城会 日本盲人会」とあります。
道雄の親友であった内田百閒は、道雄の死が相当悲しかったのでしょう。この供養塔には、立てられてから二年間、訪問できなかったと言います。
百閒もこの供養塔の前に立ったことを考えると、その同じ場所を共有できたことが、一百閒ファンとしては感慨深いものがあります。できれば、この供養塔の場所を、駅前の地図に明記して欲しいものです。
ちなみに、この供養塔は電車の車窓からも一瞬眺めることができます。下の写真は下りの東海道線の車中から撮影したものです。車内から見ただけでは、供養塔に点字の楽譜があることなど、とてもわかりません。はやり碑は実際に近くで眺めて鑑賞したいものですね。
(参考)刈谷駅から供養塔までの道のり
https://ikezawabungaku.seesaa.net/article/201105article_1.html
下の写真は、供養塔のあるエリア全体を眺めたところです。
植え込みに囲まれて、いくつかの碑が建っているのが見えます。
解説板には以下のようにありました。
宮城道雄供養塔
「春の海」を作曲した筝曲家宮城道雄は、大阪・神戸・京都など関西での演奏旅行のため夜行急行「銀河」に乗ったところ、昭和31年6月25日未明、刈谷駅の東で列車から落ちて死亡した。
宮城道雄は明治27年神戸市に生まれ、7歳の時に失明してから生田流2代目中島検校の門に入って筝三絃を学び、12歳で師範免許を受けた。
供養塔は三重宝塔で、昭和32年5月、刈谷市・宮城会・日本盲人会の三者によって転落場所近くのこの場所に建てられた。
平成12年3月
刈谷市教育委員会
解説版の後ろに、「交通守護」と刻まれたお地蔵様が建っています。裏に、「昭和32年5月建之 宮城貞子」とありましたので、宮城道雄の妻によって設置されたもののようです。
その右手には「楽聖宮城道雄先生供養塔」と刻まれた大きな石柱が立っていますが、これは供養塔ではなく、標識です。供養塔よりも大きく目立って見えます。
この石柱の左側面には、「日本芸術院会員豊道慶中書」とあります。
石柱の裏面にまわると、上から「昭和三十二年五月建之」「刈谷市 宮城会 日本盲人会」の文字が刻まれています。
その左下には、やや浅く、「岡崎市 石研作」と刻まれています。石柱作成を請け負った石材屋の名称でしょうか。
さて、ここからが本題の供養塔です。
供養塔を正面から見ると、三重宝塔の一番下の段を長く伸ばして、そこに文字を浮き彫りにしたデザインになっています。正面には、「楽聖宮城道雄先生供養塔」とあり、上部には琴を奏でる天女らしき姿が浮き彫りされています。
供養塔の左手には、この供養塔について記したと思われる点字の文章を銅版に打ち出してはめ込んだ解説板が立っています。下には「盲人の参拝者のために」とあります。
供養塔の左側面には、笛を奏する天女のレリーフの下に、「水の変態」と縦に書かれた文字。そしてその背景に、なにやら点字らしきものが一面に彫られています。どうやらこれは、宮城道雄が14歳の時に作曲した処女作『水の変態』の点字楽譜のようです。ちなみに、当時家庭の事情で朝鮮の仁川(現在の韓国のインチョン)に住んでいた道雄は、この曲で伊藤博文に認められ、伊藤は道雄を上京させてその後の面倒を見ることを約束しましたが、その直後に伊藤自身が暗殺され、結局約束は果たされませんでした。
楽譜が刻まれている碑は多々あると思いますが、このように点字の楽譜が刻まれたものは珍しいのではないでしょうか。
供養塔の右側面にまわってみましょう。
こちらにも楽譜が刻まれていますが、点字ではなく、一般の五線譜です。曲目は、現在でも我々が正月になると必ず耳にする名曲「春の海」。
台座の右側面には、「監修 文博(文学博士) 石田彦作 設計・制作 岡崎市石研 池上年」とあります。
台座の左側面には「塔銘 日本芸術院会員 豊道慶中書」とあります。豊道慶中(ぶんどうけいちゅう)は、先ほど見た、大きな標識の文字も書いた書家で、号を春海( しゅんかい)といいました。六朝風の楷書で独自の書風を作りあげた慶中は、天台宗の大僧正でもありました。号は、道雄の「春の海」にも通じるものがありますね。
台座の背面には、「昭和三十二年五月建之 刈谷市 宮城会 日本盲人会」とあります。
道雄の親友であった内田百閒は、道雄の死が相当悲しかったのでしょう。この供養塔には、立てられてから二年間、訪問できなかったと言います。
百閒もこの供養塔の前に立ったことを考えると、その同じ場所を共有できたことが、一百閒ファンとしては感慨深いものがあります。できれば、この供養塔の場所を、駅前の地図に明記して欲しいものです。
ちなみに、この供養塔は電車の車窓からも一瞬眺めることができます。下の写真は下りの東海道線の車中から撮影したものです。車内から見ただけでは、供養塔に点字の楽譜があることなど、とてもわかりません。はやり碑は実際に近くで眺めて鑑賞したいものですね。
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