「川上音二郎と貞奴展」を見てきました
今年は、川上音二郎の没後100年、貞奴の生誕140年という節目の年にあたるそうです。それを記念して、9月10日から11月27日まで、茅ヶ崎市美術館で「川上音二郎・貞奴展」が開催されました。
上の写真は、展示が行われた茅ヶ崎市美術館です。この美術館は、茅ヶ崎駅から海に向かって10分ほど歩いた高砂緑地という公園の中にあります。ここは、かつて音二郎と貞奴の自宅が建っていた場所でした。
なぜ、川上夫妻は茅ヶ崎に家をかまえたのでしょうか。
1897年(明治30年)、歌舞伎俳優の九代目市川団十郎は、茅ヶ崎に6000坪もの広大な敷地に別荘を建て、「孤松庵」と名づけました。団十郎は、この屋敷で六代目尾上菊五郎をはじめとする若い歌舞伎俳優を育てました。
1902年(明治35年)、海外公演から帰国した川上音二郎と貞奴夫妻は、団十郎を慕って茅ヶ崎に移り住み、自宅を「萬松園(ばんしょうえん)」と名づけています。音二郎は、茅ヶ崎に演劇学校を作って、演劇活動の拠点にしようとしていたようです(この計画は音二郎が1911年に48才で亡くなったために実現しませんでした)。
1903年9月13日に団十郎が没した時には、音二郎は弟子を率いて葬儀の準備に奔走したと言います。
美術館の周辺に音二郎の住んでいた頃の面影は残っているのでしょうか。砂地の中に背の高い松が茂る光景からは、当時の光景を幾分かは感じられるように思います。
今回の展示には、団十郎の別荘「孤松庵」の300分の一の敷地模型が展示されていました。今の鉄砲通りを挟むように広がるその広大な敷地は、現在の住宅街が広がる光景からは想像もつきませんが、当時の文化人の別荘のスケールの大きさが感じられました。
展示の中で興味を引いたのは、音二郎が差し出した多くの書簡を貼り付けたスクラップ帳です。音二郎はアメリカ巡業の際に、当時9歳だった姪のツルを同行させましたが、そのツルをアメリカに住んでいた画家青木年雄のもとに養女として残しました。アメリカ巡業中、音二郎一座は資金面で困窮していましたが、そんな音二郎一座をさまざまな面から支えたのが青木でした。
その青木のもとに音二郎から送られた、欧米巡業関係の手紙や資料を多数貼り付けたものが松竹大谷図書館から見つかり、今回初展示されていました。書簡に認められた文章からは、音二郎が悪戦苦闘しながら欧米で公演を続ける様子が生々しく伝ってきます。
また、音二郎夫妻が海外公演を行った際のパンフレットやポスター、写真などは、当時の外国人が日本人をどのようにとらえていたのかが感じられる興味深いものでした。
一年ほど前に、『スタンプマガジン』誌に音二郎のことを書いた時にもいろいろ調査はしましたが、今回の展示をきっかけに、音二郎の波乱の生涯についてますます興味を持つことができました。
今年の本ブログはこれで最終回となります。一年間ご愛読いただき、ありがとうございました。来年も、引き続き、文学と歴史と芸術の旅におつきあいいただければと思います。
上の写真は、展示が行われた茅ヶ崎市美術館です。この美術館は、茅ヶ崎駅から海に向かって10分ほど歩いた高砂緑地という公園の中にあります。ここは、かつて音二郎と貞奴の自宅が建っていた場所でした。
なぜ、川上夫妻は茅ヶ崎に家をかまえたのでしょうか。
1897年(明治30年)、歌舞伎俳優の九代目市川団十郎は、茅ヶ崎に6000坪もの広大な敷地に別荘を建て、「孤松庵」と名づけました。団十郎は、この屋敷で六代目尾上菊五郎をはじめとする若い歌舞伎俳優を育てました。
1902年(明治35年)、海外公演から帰国した川上音二郎と貞奴夫妻は、団十郎を慕って茅ヶ崎に移り住み、自宅を「萬松園(ばんしょうえん)」と名づけています。音二郎は、茅ヶ崎に演劇学校を作って、演劇活動の拠点にしようとしていたようです(この計画は音二郎が1911年に48才で亡くなったために実現しませんでした)。
1903年9月13日に団十郎が没した時には、音二郎は弟子を率いて葬儀の準備に奔走したと言います。
美術館の周辺に音二郎の住んでいた頃の面影は残っているのでしょうか。砂地の中に背の高い松が茂る光景からは、当時の光景を幾分かは感じられるように思います。
今回の展示には、団十郎の別荘「孤松庵」の300分の一の敷地模型が展示されていました。今の鉄砲通りを挟むように広がるその広大な敷地は、現在の住宅街が広がる光景からは想像もつきませんが、当時の文化人の別荘のスケールの大きさが感じられました。
展示の中で興味を引いたのは、音二郎が差し出した多くの書簡を貼り付けたスクラップ帳です。音二郎はアメリカ巡業の際に、当時9歳だった姪のツルを同行させましたが、そのツルをアメリカに住んでいた画家青木年雄のもとに養女として残しました。アメリカ巡業中、音二郎一座は資金面で困窮していましたが、そんな音二郎一座をさまざまな面から支えたのが青木でした。
その青木のもとに音二郎から送られた、欧米巡業関係の手紙や資料を多数貼り付けたものが松竹大谷図書館から見つかり、今回初展示されていました。書簡に認められた文章からは、音二郎が悪戦苦闘しながら欧米で公演を続ける様子が生々しく伝ってきます。
また、音二郎夫妻が海外公演を行った際のパンフレットやポスター、写真などは、当時の外国人が日本人をどのようにとらえていたのかが感じられる興味深いものでした。
一年ほど前に、『スタンプマガジン』誌に音二郎のことを書いた時にもいろいろ調査はしましたが、今回の展示をきっかけに、音二郎の波乱の生涯についてますます興味を持つことができました。
今年の本ブログはこれで最終回となります。一年間ご愛読いただき、ありがとうございました。来年も、引き続き、文学と歴史と芸術の旅におつきあいいただければと思います。
この記事へのコメント