高村智恵子と安達太良山
詩人・高村光太郎の妻、智恵子は、1886(明治19年)5月20日、 福島県安達郡油井村(現在の二本松市)に生まれました(安達町は平成17年に周辺の市町村と合併し二本松市となっています)。智恵子といえば、光太郎が智恵子への愛を綴った名詩集『智恵子抄』で有名ですが、今回は、1986年に智恵子生誕百年を記念して使われた小型印を紹介しましょう。
小型印には、安達の町並みの中に復元保存されている智恵子の生家がデザインされています。智恵子の生家は屋号を「米屋」と称する造り酒屋でした。小型印に描かれている建物にも、酒屋を示す杉玉らしきものが小さく見えます。
生家の裏庭には、当時の酒蔵をイメージした智恵子記念館が建ち、智恵子ゆかりの作品が展示されています。
小型印の背景に見えるのは、安達太良山(あだたらやま)でしょうか。日本百名山にも選定されているこの山は、智恵子の生家のはるか西にそびえ、光太郎の詩にもたびたび登場します。
智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。
(「あどけない話」『智恵子抄』より)
福島の澄んだ空気の中で育った智恵子にとっての「ほんとの空」は、東京のそれではなく、安達太良山の上に広がるどこまでも青い空でした。智恵子のふるさとを訪れた光太郎も、智恵子の故郷を「ひんやりと快いもの」として、気に入っていたようです。
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた
空気を吸おう。
あなたそのものの様な此のひんやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都(東京)、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
(「樹下の二人」(抜粋)『智恵子抄』より)
1931年(昭和6)年頃から智恵子は統合失調症を病み、光太郎は智恵子を伴って福島の温泉や九十九里浜へ転地療養を試みますが症状は一進一退を繰り返します。7年にわたる闘病の末、智恵子は1938年(昭和13年)10月5日、南品川ゼームス坂病院で息を引き取りました。光太郎が『智恵子抄』を刊行したのはその3年後です。
ところで、この小型印は、どのような場面で使用されたのでしょうか。小形印の日付は智恵子が生まれた5月ではなく、命日の10月ですが、この年の10月から11月にかけて、二本松市の歴史資料館では「智恵子生誕100年特別企画展 光太郎・智恵子の世界~その愛と美の生涯~」と題した企画展示が開催されていたようですので、こうした企画にあわせて使用されたものかもしれません。
小型印には、安達の町並みの中に復元保存されている智恵子の生家がデザインされています。智恵子の生家は屋号を「米屋」と称する造り酒屋でした。小型印に描かれている建物にも、酒屋を示す杉玉らしきものが小さく見えます。
生家の裏庭には、当時の酒蔵をイメージした智恵子記念館が建ち、智恵子ゆかりの作品が展示されています。
小型印の背景に見えるのは、安達太良山(あだたらやま)でしょうか。日本百名山にも選定されているこの山は、智恵子の生家のはるか西にそびえ、光太郎の詩にもたびたび登場します。
智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。
(「あどけない話」『智恵子抄』より)
福島の澄んだ空気の中で育った智恵子にとっての「ほんとの空」は、東京のそれではなく、安達太良山の上に広がるどこまでも青い空でした。智恵子のふるさとを訪れた光太郎も、智恵子の故郷を「ひんやりと快いもの」として、気に入っていたようです。
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた
空気を吸おう。
あなたそのものの様な此のひんやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都(東京)、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
(「樹下の二人」(抜粋)『智恵子抄』より)
1931年(昭和6)年頃から智恵子は統合失調症を病み、光太郎は智恵子を伴って福島の温泉や九十九里浜へ転地療養を試みますが症状は一進一退を繰り返します。7年にわたる闘病の末、智恵子は1938年(昭和13年)10月5日、南品川ゼームス坂病院で息を引き取りました。光太郎が『智恵子抄』を刊行したのはその3年後です。
ところで、この小型印は、どのような場面で使用されたのでしょうか。小形印の日付は智恵子が生まれた5月ではなく、命日の10月ですが、この年の10月から11月にかけて、二本松市の歴史資料館では「智恵子生誕100年特別企画展 光太郎・智恵子の世界~その愛と美の生涯~」と題した企画展示が開催されていたようですので、こうした企画にあわせて使用されたものかもしれません。

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