窪田空穂の書簡を読み解く
前回のブログで紹介した窪田空穂の書簡には、便箋3枚からなる本文が残されていました。かなり癖のある筆跡なので解読には苦労しましたがおおよその内容がつかめましたので紹介したいと思います。なお、この書簡が書かれたのは、書簡の日付から昭和2年5月30日と思われます。
まず一枚目です。
「御手紙拝見。旅行の折には案外いゝ事になるかと思って、御見舞の代りに御喜びを申し上げます。」とあります。病気か怪我が回復しつつある、という手紙に対する返信でしょうか。続けて、「御愛読のキングの中から、せいぜい滋味を御意見になるようにと希望致します。」とあります。「御意見」の「意」は「ゐ」をあてているように見えます。
「キング」は、1924(大正13)年に現在の講談社から創刊された大衆娯楽雑誌です。小説や講談、説話、笑い話といった比較的柔らかい内容で、ちょうどこの書簡が書かれた昭和2年頃には発行数は100万部を越えていたといいます。そんな「キング」に掲載された文芸作品についての批評を聞かせてほしい、という意味にとれます。
そこから二枚目にかけて、「御意見の手紙の事、御紹介を待ちます。さうしたものを見せてくれる人の一人や二人はほしいと思ひます。自分でするのは面倒ですが入手してくれたのを読むのは嬉しいもので...」と続きます。
原稿用紙の左下には、「相馬屋製」という文字が見えます。
「相馬屋」は、江戸時代から続く文房具店の老舗「相馬屋源四郎商店」で、今も神楽坂で営業を続けています。1文字ずつマス目で区切った原稿用紙は、この相馬屋が尾崎紅葉の発案で初めて作ったと言われており、漱石を始め、北原白秋や啄木など多くの作家がこの原稿用紙を愛用してきました。窪田空穂も日常の歌稿や原稿を執筆するのに相馬屋の原稿用紙を愛用し、そのまま便箋としても使っていたのですね。
二枚目から三枚目にかけて、「ご上京の時を待ちます。「国文学」は関係者以外のものは案外いい雑誌だといひます。大部分はお世辞ですが、やってゆけばよくなる事もありませう。しかし編輯当番が杉崎君で、一口に埒が明かないやうです」といった記述があります。「国文学」は、「キング」と同じ1924(大正13)年に創刊された雑誌『国語と国文学』のことと思われます。書簡の宛名人である笹野堅は能や狂言などの研究をされていたようですので、自らの文芸に関する論文の発表先を捜していたのかも知れません。
この書簡の宛先は、前回も紹介したように豊橋歩兵第十八聯隊の志願兵となっています。訓練の合間に暇を見つけて上京し、一緒に文芸について語り合おう、と誘っているのでしょう。
書簡が入っていた封書を、再度掲載します。
三枚目は「隣りの先生、虫歯でやつれてゐます。しかし何でもありません。かうしてゐると、キングは読みませんが、外のものもさう読めません。人生の五月はだるい季節です。眠くて仕方がありません。」と続きます。
最後は、「新緑の雑司ケ谷より(トハイカラに書いて)」と結ばれています。
何箇所か判読が難しい部分もありますが、使われている原稿用紙や当時の出版事情も含め、昭和初期の文学界のひとコマをあれこれ想像しながら読み解くと興味はつきません。
まず一枚目です。
「御手紙拝見。旅行の折には案外いゝ事になるかと思って、御見舞の代りに御喜びを申し上げます。」とあります。病気か怪我が回復しつつある、という手紙に対する返信でしょうか。続けて、「御愛読のキングの中から、せいぜい滋味を御意見になるようにと希望致します。」とあります。「御意見」の「意」は「ゐ」をあてているように見えます。
「キング」は、1924(大正13)年に現在の講談社から創刊された大衆娯楽雑誌です。小説や講談、説話、笑い話といった比較的柔らかい内容で、ちょうどこの書簡が書かれた昭和2年頃には発行数は100万部を越えていたといいます。そんな「キング」に掲載された文芸作品についての批評を聞かせてほしい、という意味にとれます。
そこから二枚目にかけて、「御意見の手紙の事、御紹介を待ちます。さうしたものを見せてくれる人の一人や二人はほしいと思ひます。自分でするのは面倒ですが入手してくれたのを読むのは嬉しいもので...」と続きます。
原稿用紙の左下には、「相馬屋製」という文字が見えます。
「相馬屋」は、江戸時代から続く文房具店の老舗「相馬屋源四郎商店」で、今も神楽坂で営業を続けています。1文字ずつマス目で区切った原稿用紙は、この相馬屋が尾崎紅葉の発案で初めて作ったと言われており、漱石を始め、北原白秋や啄木など多くの作家がこの原稿用紙を愛用してきました。窪田空穂も日常の歌稿や原稿を執筆するのに相馬屋の原稿用紙を愛用し、そのまま便箋としても使っていたのですね。
二枚目から三枚目にかけて、「ご上京の時を待ちます。「国文学」は関係者以外のものは案外いい雑誌だといひます。大部分はお世辞ですが、やってゆけばよくなる事もありませう。しかし編輯当番が杉崎君で、一口に埒が明かないやうです」といった記述があります。「国文学」は、「キング」と同じ1924(大正13)年に創刊された雑誌『国語と国文学』のことと思われます。書簡の宛名人である笹野堅は能や狂言などの研究をされていたようですので、自らの文芸に関する論文の発表先を捜していたのかも知れません。
この書簡の宛先は、前回も紹介したように豊橋歩兵第十八聯隊の志願兵となっています。訓練の合間に暇を見つけて上京し、一緒に文芸について語り合おう、と誘っているのでしょう。
書簡が入っていた封書を、再度掲載します。
三枚目は「隣りの先生、虫歯でやつれてゐます。しかし何でもありません。かうしてゐると、キングは読みませんが、外のものもさう読めません。人生の五月はだるい季節です。眠くて仕方がありません。」と続きます。
最後は、「新緑の雑司ケ谷より(トハイカラに書いて)」と結ばれています。
何箇所か判読が難しい部分もありますが、使われている原稿用紙や当時の出版事情も含め、昭和初期の文学界のひとコマをあれこれ想像しながら読み解くと興味はつきません。






この記事へのコメント
笹野堅は昭和2年に早稲田の国文科を卒業していますので、窪田氏のとの縁は師弟関係ということになります。卒業後、研究職を希望したようですが叶わず、豊橋連隊に入隊したようです。昭和3年除隊後、昭和4年に東京帝大の副手として採用され、昭和12年に日中戦争に応召するまで「国語と国文学」の編集に当たっています。
笹野氏宛の書簡は現在遺族から寄贈されて法政大学の能楽研究所に所蔵されていますが、著名人からの物は市場に流れており(永井荷風や會津八一)この書簡もそのうちの1つと思います。ご紹介に感謝いたします。
貴重な情報提供ありがとうございます。笹野氏は、やはり窪田空穂と深いつながりのある人物だったのですね。勉強になります。おかげさまで、窪田氏と笹野氏の間に広がる人間ドラマにも、さらに興味が沸いてきました。今後とも本ブログよろしくお願いいたします。
「隣りの先生」は早稲田で隣室/隣席の誰か、と思っていたのですが、隣家の山口氏のことではないか、という気がしてきました。ちなみに山口氏から豊橋連隊の笹野氏に宛てた書簡も、能楽研究所に所蔵されています。
興味深い情報をありがとうございました。「隣の先生」については私も気になっていましたが、名前も記載されていないので特定するのは不可能と思っていました。意外なところにヒントが隠されていたのですね。当時の文人たちの交流が垣間見られて、興味はつきません。中公文庫『續渾齋隨筆』は私も所有していたと思うので、捜してみようと思います。ありがとうございました。
能楽研究所に山口氏の書簡が保管されていることをmagicana様はどのようにして調べられたのでしょうか。