軽井沢 有島武郎終焉の地を訪ねて

有島武郎は大正12年(1923年)年6月、軽井沢の山荘で心中を遂げました。昨年9月、その山荘跡地を訪問してきましたので紹介したいと思います。

軽井沢で最期を迎えた有島武郎は、私の故郷である北海道にもゆかりのある作家です。武郎は札幌農学校(現在の北海道大学)で学び、後に英語教師として農学校の教壇に立っていました。また、私の実家からほど近い北海道開拓の村という野外施設に、札幌にあった武郎の旧宅が移築復元されており、私も小学生の頃何度か訪れたことを思い出します。札幌時代の有島武郎についてはまた機会を改めて書きたいと思います。

武郎が札幌を去ったのは大正3年(1914年)のことです。9月下旬に妻安子が肺結核を発病したことから、鎌倉に転地療養させることを決意、11月に札幌生活を切り上げています。

安子は大正5年(1916年)8月2日、28歳の若さで病死しました。その後、武郎の前に現れたのが心中相手となる波多野秋子です。彼女は雑誌『婦人公論』の記者でした。彼女は某実業家と新橋の芸者の間に生まれた私生児で、青山学院に学びながら波多野春房の英語塾に通っていました。やがて彼女は波多野春房と結婚し、高島米峰の紹介で中央公論社に勤務することになります。

二人が出会ったのは大正11年(1922年)の夏ごろと言われています。大正12年(1923年)6月8日の夕方、小さな風呂敷包みを持って行き先を告げずに家を出た武郎は、新橋で秋子と落ち合いました。二人はそのまま軽井沢に向かいます。

二人は翌6月9日未明、軽井沢の愛宕山山麓にある別荘「浄月庵」の一階の応接間で縊死をとげました。武郎は享年46歳。二人の死体は7月7日に発見されましたがすでに腐乱していたといいます。武郎の遺書には「森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが実際私達は、戯れつつある二人の小児に等しい。 愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」と、自らの運命を予測するかのようなくだりがあったといいます。

浄月庵があった場所には、現在建物は残っていませんが、記念碑があるというので訪れてみました。
場所は、旧軽井沢のロータリーから三笠通りを三笠ホテル方面に進み、ホテルの少し手前の道を左に入って、斜面の山道を登ったところです。車では途中までしか入れず、途中から徒歩で細い山道を登りました。

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坂の入り口に小さな看板が出ているので、それを頼りに進みます。

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二人にとって最後の軽井沢訪問となった大正12年の6月9日は、激しい雨が降っていたと言います。この細い道を、二人も登っていったのでしょうか。

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かつて建物があった場所には碑が立てられていますが、一帯は決して広くはなく、建物の面影はありません。斜面の山道を少し広げたといった雰囲気でしょうか。

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「有島武郎終焉地」の文字は武郎の弟である有島生馬の筆跡によるものです。

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有島武郎は大正七年の夏をこの軽井沢で過ごし、その時のエピソードを短編『小さき影』にまとめています。また、『生まれ出づる悩み』を執筆したのもこの浄月庵でした。

緑の木々に囲まれた山中の光景は、二人が最期を遂げた時代とそれほど大きく変わっているとは思えません。最後に二人の目に映ったものは何だったのでしょうか。

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この碑は、そばにあった案内板によれば昭和28年に建てられたようです。また、終焉の地の碑の左側には英文の「チルダへの友情の碑」がありますが、これは武郎がスイスで知り合った少女に宛てた手紙の一節を刻んだもので、昭和12年、チルダ本人がこの地を訪れた際に建てた慰霊碑です。年代的には、こちらのチルダへの友情の碑の方が終焉地の碑よりも古いことになります。
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ところで、この場所にあった「浄月庵」の建物は、現在、軽井沢ゆかりの作家の資料を展示している文学館「軽井沢高原文庫」の隣接地に移築され、一般に公開されています。次回は、こちらの建物を紹介したいと思います。

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