【上海通信】宋慶齢の旧居訪問(2)

前回に続き、宋慶齢旧居について紹介いたします。

淮海中路沿いの入り口から宋慶齢旧居の敷地へと足を踏み入れると、正面奥が旧居、右手に宋慶齢文物館が並んでいます。入口の前には宋慶齢の白い座像が鎮座し、訪れた人の多くがここで記念撮影をしていました。この文物館には、宋慶齢の生い立ちを紹介する資料が展示されています

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文物館の入り口にも白い胸像。
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宋慶齢は14歳でアメリカのウェスレイアン大学に留学し、6年間アメリカで暮らしました。当時英語で撮ったノートが残されています。
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宋慶齢が1929年に欧州に渡る際に使用したパスポート。冊子ではなく、一枚の書類です。当時のパスポートは誰でも自由に取得できるものではなく、特別な手続きをとって都度発行される書類であったことがよくわかります。
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愛用の衣装。
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バイオリンもたしなんでいたようです。
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国民党の党証。夫である孫文の肖像がしっかりと見据えるこの党証には、中華民国11年9月10日の日付が見えます。中華民国11年は西暦では1922年。この年、孫文と意見の対立を見た陳炯明による総統府の砲撃事件(いわゆる六一六事変)が発生し、この際、宋慶齢は流産を経験しています。
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孫文と宋慶齢は日本で結婚しました。その結婚にまつわる写真や資料も文物館内で見ることができます。

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1914年、宋慶齢は孫文の秘書となり、孫文の生き方に共感し、結婚を強く望むようになります。しかし、慶齢の両親は孫文との結婚に反対していました。当時、孫文には妻子がいたのです。また、革命家としては尊敬できても、孫文の日々の生活は危険を伴うもので、親にとっては娘の結婚相手として難しい選択だったことでしょう。
しかし、1915年10月25日、二人は親の反対を押し切って結婚しました。二人の結婚を仲立ちしたのは孫文の友人であった梅屋庄吉とその妻でした。結婚当時、孫文は48歳。宋慶齢は22歳。年の差は26歳もありました。

下は、孫文と宋慶齢の結婚誓約書。日本語で書かれ、1915年10月26日の日付が見えます。立会人として和田瑞の名前が記されています。

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孫文は1925年3月12日に亡くなっていますので、結婚生活はわずか10年あまりだったことになります。以降、宋慶齢は1981年5月29日に北京で没するまでの56年間を、独身で通しました。

宋慶齢がこの淮海中路の家に住み始めたのは1949年の春。すでに孫文が亡くなってから24年もたっていました。宋慶齢はこの家で、使用人である李燕娥と暮らしていました。1954年に全国人民代表大会が成立すると宋慶齢は常務委員会第一副委員長に選出され、1959年4月には国家副主席の要職を与えられました。1963年には住処を北京に移したため、宋慶齢がこの家で暮らしたのは14年余りだったことになります。

同じく上海市内ある宋慶齢の墓も、いずれ訪れてみたいと思います。

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