大佛次郎の墓を訪ねて~著名人の墓探しのテクニック
大佛次郎は1921(大正10)年、結婚を期にそれまで住んでいた東京を離れ、鎌倉に移りました。「大佛次郎」は野尻清彦の数あるペンネームの一つで、デビューから数年の間に書かれた百作に近い長短編では17のペンネームを使い分けていました。1924(大正13)年に事実上のデビュー作となる大衆小説「隼の源次」を執筆した際、鎌倉長谷の大仏の裏手に居をかまえていたことから、ペンネームに「大仏」の文字を入れ、これが生涯を通じて付き合うことなる名前となりました。1926(大正15)年には鎌倉材木座上河原に移り、1929(昭和4)年の夏には鶴岡八幡宮にほど近い雪ノ下に新居を建て、1973(昭和48)年に亡くなるまでその家で暮らしました。
その大佛次郎の墓が鎌倉の寿福寺にあるというので、訪ねてみました。
寿福寺は、鎌倉駅の西口を出て、線路に沿って北鎌倉方面に700メートルほど進んだところにあります。国指定史跡となっている寿福寺、正確には亀谷山寿福金剛禅寺とう臨済宗の寺院で、鎌倉五山の三位に位置する寺です。ちなみに、五山の他の寺院は、一位が建長寺、二位が円覚寺、四位は浄智寺、五位は浄妙寺と、いずれも鎌倉の名刹です。
総門をくぐると参道の正面に仏殿が見えてきます。この仏殿の左手を奥に向かって進むと墓域が広がっています。
寿福寺の墓地には高浜虚子の墓もあり、こちらは以前参拝したことがあったのですぐ見つかりました。岩をくりぬいたくぼみ(鎌倉一帯ではこれを「やぐら」と呼んでいます)の中に、「虚子」と刻んだ墓石があります。
ところが、大佛次郎の墓がなかなか見つかりません。
著名人の墓めぐりで苦労するのは、墓地の中の場所の特定です。「○○寺に眠る」という情報があれば、寺まではたどり着くことができますが、墓地が想像以上に広かったり、道路を挟んでいくつにも分かれていたりすると、自ずと探し歩く距離も長くなります。墓石はどれも形状や色が似ており、刻まれている文字が近くに寄らないと判読できない場合もしばしばです。そもそも墓地は観光地ではないので、一般的には案内図があるわけでもなく(雑司ヶ谷霊園など、多くの著名人が眠る墓地は独自に敷地内にある著名人の墓の場所を記した案内図を発行していたりしますが)、最後は体力と根気との戦いになります。
ここで、作家の生涯を扱った書物などにある墓の写真やWebに掲載された訪問記などの写真がヒントになります。その背景に移っている景色を実際の風景と比較しながら、ある程度目的とする墓の場所を同定することができます。
今回参考にした「新潮日本文学アルバム 大仏次郎」に掲載された写真ではすぐ後ろに崖が映っていたので、崖沿いに並んだ墓石を丹念に見ていきました。これがその掲載写真です。
結局、虚子の墓に向かって左手、そこからさほど遠くないところに大佛次郎の墓所を見つけることができました。柵で囲いを作った一角に二基の墓石が建っており、一基が大佛次郎、もう一つは大佛の父である野尻政助の墓でした。参考にした写真と比較すると、崖と墓石との位置関係や距離感が若干異なるようにも見えます。
では、墓石を見ていきましょう。正面には「大佛次郎墓」とあります。
次に右側面。こちらには、「昭和四十八年四月三十日 野尻清彦」と本名で没年が刻まれています。その左に「昭和五十五年五月十九日 妻 酉子云」とあります。映画女優だった妻吾妻光の本名(原田酉子)が記されており、二人がここに寄り添って眠っていることがわかります。
後ろにわまると、「昭和四十八年六月」と建立時期が刻まれていました。昭和48年4月30日に息を引き取った大佛次郎の告別式は、5月3日にこの寿福寺で行われています。墓石はその一か月ほど後に建てられたのでしょう。
同じ墓域に建つ大仏次郎の父、野尻政助の墓も見てみましょう。こちらはしっかり正面に「野尻政助之墓」と本名が刻まれています。
野尻政助は和歌山県の出身で、江戸時代に道成寺の山門再建などを手がけた宮大工の子孫にあたります。大佛次郎は先祖が大工であることについて、「私はそのことにひそかな誇りを感じた。私は小説を書いていて、言葉の大工である。木口を選び、自分でかんなやのみをかけて、この堂を普請したのと同じく、言葉をすぐって、あとに残るような仕事を、出来ればしたいと望んでいるのである」と述べています。自らの作家という仕事を、言葉を削って組み合わせながら作品に仕上げていく「言葉の大工」と例えているところが印象的です。
お約束で側面にまわってみます。まずは左側面。ここには「廣徳院禅海翠濤居士 昭和四年拾壹月参日没」とあり、戒名と没年が確認できます。
次に右側面。ここには「昭和十六年十二月二十五日 ぎん」と妻の没年と名前が記されています。大佛次郎は三男二女の末っ子でしたが、ぎん(大佛次郎の母)は娘時代、行儀見習にお屋敷勤めをしていたこともあり、子供たちの躾には厳しかったと言います。
寿福寺の墓地は崖に囲まれた地形(谷戸)になっており、砂岩の崖に穿たれた多くのやぐらの中には、鎌倉幕府三代将軍源実朝の墓と伝えられているものや、この寿福寺建立にあたって妙庵栄西禅師を開山として招いた頼朝夫人北条政子の墓などがあります。
やや湿っぽいひっそりとした谷戸で静かに眠る大佛次郎。鎌倉散策の折にふと足を延ばして手を合わせてみると、大佛次郎の人となりがより身近に感じられるかもしれません。 (取材:2010年3月14日)
その大佛次郎の墓が鎌倉の寿福寺にあるというので、訪ねてみました。
寿福寺は、鎌倉駅の西口を出て、線路に沿って北鎌倉方面に700メートルほど進んだところにあります。国指定史跡となっている寿福寺、正確には亀谷山寿福金剛禅寺とう臨済宗の寺院で、鎌倉五山の三位に位置する寺です。ちなみに、五山の他の寺院は、一位が建長寺、二位が円覚寺、四位は浄智寺、五位は浄妙寺と、いずれも鎌倉の名刹です。
総門をくぐると参道の正面に仏殿が見えてきます。この仏殿の左手を奥に向かって進むと墓域が広がっています。
寿福寺の墓地には高浜虚子の墓もあり、こちらは以前参拝したことがあったのですぐ見つかりました。岩をくりぬいたくぼみ(鎌倉一帯ではこれを「やぐら」と呼んでいます)の中に、「虚子」と刻んだ墓石があります。
ところが、大佛次郎の墓がなかなか見つかりません。
著名人の墓めぐりで苦労するのは、墓地の中の場所の特定です。「○○寺に眠る」という情報があれば、寺まではたどり着くことができますが、墓地が想像以上に広かったり、道路を挟んでいくつにも分かれていたりすると、自ずと探し歩く距離も長くなります。墓石はどれも形状や色が似ており、刻まれている文字が近くに寄らないと判読できない場合もしばしばです。そもそも墓地は観光地ではないので、一般的には案内図があるわけでもなく(雑司ヶ谷霊園など、多くの著名人が眠る墓地は独自に敷地内にある著名人の墓の場所を記した案内図を発行していたりしますが)、最後は体力と根気との戦いになります。
ここで、作家の生涯を扱った書物などにある墓の写真やWebに掲載された訪問記などの写真がヒントになります。その背景に移っている景色を実際の風景と比較しながら、ある程度目的とする墓の場所を同定することができます。
今回参考にした「新潮日本文学アルバム 大仏次郎」に掲載された写真ではすぐ後ろに崖が映っていたので、崖沿いに並んだ墓石を丹念に見ていきました。これがその掲載写真です。
結局、虚子の墓に向かって左手、そこからさほど遠くないところに大佛次郎の墓所を見つけることができました。柵で囲いを作った一角に二基の墓石が建っており、一基が大佛次郎、もう一つは大佛の父である野尻政助の墓でした。参考にした写真と比較すると、崖と墓石との位置関係や距離感が若干異なるようにも見えます。
では、墓石を見ていきましょう。正面には「大佛次郎墓」とあります。
次に右側面。こちらには、「昭和四十八年四月三十日 野尻清彦」と本名で没年が刻まれています。その左に「昭和五十五年五月十九日 妻 酉子云」とあります。映画女優だった妻吾妻光の本名(原田酉子)が記されており、二人がここに寄り添って眠っていることがわかります。
後ろにわまると、「昭和四十八年六月」と建立時期が刻まれていました。昭和48年4月30日に息を引き取った大佛次郎の告別式は、5月3日にこの寿福寺で行われています。墓石はその一か月ほど後に建てられたのでしょう。
同じ墓域に建つ大仏次郎の父、野尻政助の墓も見てみましょう。こちらはしっかり正面に「野尻政助之墓」と本名が刻まれています。
野尻政助は和歌山県の出身で、江戸時代に道成寺の山門再建などを手がけた宮大工の子孫にあたります。大佛次郎は先祖が大工であることについて、「私はそのことにひそかな誇りを感じた。私は小説を書いていて、言葉の大工である。木口を選び、自分でかんなやのみをかけて、この堂を普請したのと同じく、言葉をすぐって、あとに残るような仕事を、出来ればしたいと望んでいるのである」と述べています。自らの作家という仕事を、言葉を削って組み合わせながら作品に仕上げていく「言葉の大工」と例えているところが印象的です。
お約束で側面にまわってみます。まずは左側面。ここには「廣徳院禅海翠濤居士 昭和四年拾壹月参日没」とあり、戒名と没年が確認できます。
次に右側面。ここには「昭和十六年十二月二十五日 ぎん」と妻の没年と名前が記されています。大佛次郎は三男二女の末っ子でしたが、ぎん(大佛次郎の母)は娘時代、行儀見習にお屋敷勤めをしていたこともあり、子供たちの躾には厳しかったと言います。
寿福寺の墓地は崖に囲まれた地形(谷戸)になっており、砂岩の崖に穿たれた多くのやぐらの中には、鎌倉幕府三代将軍源実朝の墓と伝えられているものや、この寿福寺建立にあたって妙庵栄西禅師を開山として招いた頼朝夫人北条政子の墓などがあります。
やや湿っぽいひっそりとした谷戸で静かに眠る大佛次郎。鎌倉散策の折にふと足を延ばして手を合わせてみると、大佛次郎の人となりがより身近に感じられるかもしれません。 (取材:2010年3月14日)
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